
ゆうゆうの里通信を掲載していきます。
これはゆうゆうの里を立ち上げた理由から最初のご利用者様との出逢い・・・など
社長自らの手で綴った実話になります。 ご期待ください。
[2007/01/11] 【わたしの居場所@】〜ここ宅老所を立ち上げた理由〜
「お世話になりました。私ここをでていきます・・・」
ある晩、祖母が、玄関にたくさんの荷物をかかえて出て行こうとしていました。
家族(祖母)の認知症の始まりです。
その祖母の介護をしていたのが、私の母親でした。
その現状をまのあたりにし、家族内での介護負担と精神的なストレスは、想像以上のものであることを知りました。
また、病院で看護師をしていた頃のこと、「そろそろ退院ですね・・」と退院の話があがると、患者さんは「どこそこの具合が悪い・・」だの「食欲がない・・」だのいいはじめ、陰で食べ物を口にしている、といった光景に出会うことがありました。退院しても、一番大切な、安心して暮らせるという生活の保障が何もなく、不安をかかえた中では、病気がよくなるわけもない・・と、本当に悔しい思いをしたものでした。
高齢者にとって、生活の基盤が、家族との同居であれ、独居の状態であれ、明日に不安をかかえながら毎日を暮らし、生きていくというこの辛さは、ご本人にしかわかりません。また、そばにいるご家族も、介護の不安や生活の厳しさが現実になったときには、もうどっぷりと365日、24時間、休みなしに続く苦痛と、先の見えない、無期限のあり地獄のような状態の中で、忍耐も限界に達してしまう、といったこともあるのです。
家族に迷惑もかけられなくて、自分はまだまだ介護を受けなくて大丈夫、といいはる、現実とのギャップの中、同じ境遇の人が集まった一つの小さな社会があり、その社会の中に自分の居場所があって、自分が生まれてきた意味と、生きて生かされている役割をもう一度かんじることができるような、そして、家庭の延長のような自然な環境が必要であると、強く感じたのです。 また、それにプラスして、医療面からのバックアップをはかることが不可欠との思いから、訪問看護や、医療体制との提携によって、緊急時にも、ご利用者とご家族が安心できる対応のとれる、環境を整えました。
そして何より一番は、私自身が体を壊し、数ヶ月入院したときに、「もう先がないのではないか・・」と、勝手に思い込んだ際、「悔いの残らない人生を送りたい」とそう思ったのです。
そんなこんなの私に今残されているのは、行動力とわずかな知識と、実行する勇気だけかもしれません。 それで、「勇気をもって優しい気持ちを大切に・・」という思いから「ゆう・ゆう(勇・優)の里」と名づけて、第一歩が始まりました。
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[2007/01/11] 【わたしの居場所A】〜サチさんとともに〜
「あ〜!何が何だかわかりません!何がどうなっているんでしょうか!」
私とサチさんの最初の出逢いでした。
平成13年5月、私の体調が思わしくなく入院の中、ゆうゆうの里の設立準備を進めておりましたが、そんなある日、聞こえてきたのが冒頭の叫び声でした。
恐る々病室をのぞいたところ、ベッドの上でひっくり返り、衣服ははだけ、つながれた尿管は今にもひきちぎられそうなくらい伸びきって、バタバタと手足を動かし、自分では全く身動きが取れない状態の老婆がそこにいました。 みかねてそばに寄った私の腕をあざが残るほどつかんだ彼女に、「大丈夫ですよ。」と声をかけながらナースコールをし、看護師の到着後おちついた彼女を確認し、病室を後にしました。
翌日、看護師さんが「昨日のサチさんが、助けてくれた草場さんにお礼を言いたい」とのことで一緒に車椅子で私の病室を訪ねてくれた彼女の姿は、昨日の“カナブンがひっくり返ったような”壮絶な状況だった老婆とは全く別人で、白いレースのカーディガンをまとい、とても素敵な笑みを浮かべた上品なおばあさまでした。 しばらく楽しいお話を色々とさせて頂く中であっという間の時間が過ぎ、そのうちに私の退院となり、サチさんとはそのままでした。
それから2週間ほどして、病院から「サチさんが逢いたいと」との事で連絡がはいり、それからさらに2〜3週間して今度はサチさんのご家族も一緒に逢いたいとのことでした。 話の内容は「宅老所 ゆう・ゆう」の開所スケジュールや詳細で、本当に事細かくまるで尋問を受けているかのように次から次に聞かれ、まだ全てが予定だった私にとっては「○○の予定です。たぶんそうなると思います。・・」のレベルでしかお返事ができませんでした。 そんな未定の話の中で、ご家族がまだ改装中だった宅老所を訪れ、また車椅子のサチさんまで外出許可をとって自分の目で実際に確かめられ、そのまま入所を即答されることとなりました。
私の夢であった「宅老所 ゆう・ゆう」の最初の記念すべきご利用者との大切な第一歩は、サチさんとともにこうして刻まれることとなりました。サチさんの入所は退院が早まられたために、開所前の忘れもしない平成13年8月25日。 そして5年後の平成18年の春、桜の咲くきれいな季節に看取らせていただくまで、サチさんの壮絶なる日々の始まりでした。 介護度4、とても広いお屋敷に家政婦さんとお二人で暮らしておられた恵まれたサチさんが自ら選んだ老後・・・サチさんの居場所はまぎれもなく「宅老所 ゆう・ゆう」とともに・・・
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[2007/01/11] 【わたしの居場所B】〜サチさんの入所〜
サチさんは、病院を退院した足で、そのまま息子さんご夫婦とお手伝いさんに付き添われ、笑顔でご入居されました。 緊張と不安でいっぱいだった私を含めた職員全員がホッと胸をなでおろしたのは、平成13年8月25日・・・忘れもしない宅老所開所前のあわただしい中でした。
スタッフもやっと揃い、開所に向け準備を進めている中で、入居第一号であるサチさんの状態を限られた情報を元に、宅老所での生活をイメージすることから始まりました。 サチさんは、ご自宅の玄関先で転倒し、大腿骨頸部骨折という大けがを負い、病院で手術を受けました。 毎日のリハビリの中で、ベッドから車椅子への移乗が介助を受けながらですがやっとできるだけの状態でした。
宅老所を少しでも快適に過ごしてもらうために、手すりの位置や車椅子移動時の障害となり得るものの撤去、介助内容、必要備品の確認等、ありとあらゆる思いつく状況に対応が可能であるかを考えに考え抜き、準備を整えサチさんを迎えることになりました。
90歳という高齢でしたが、とても聡明で冗談もまじえながらお話しをされる方ですが、なかなかどうして・・・明治生まれの強い女性のサチさん、8月25日の入所初日の日、息子さんご夫婦とお手伝いさんが帰られる時間になられた時も意外にもあっさりとしたもので、サチさんの真の強さがそこにもありました。
第一日目もそうこうしているうちに、最初のお茶菓子の時間になりました。
「これを頂いてもよろしゅうございますか?」
スタッフの一人がお茶とお茶菓子をサチさんにお出しした際に、遠慮がちにおっしゃったサチさんの何気ない一言でした。 実は、甘いものが大好きだったサチさんですが、長い入院生活の中で、思うように口にすることができなかった大好物が目の前にそっと差し出されたのです。 明治生まれのプライドがあったサチさんにとって「もう一つ食べたい」・・と素直に口に出すことすらできませんでした。 食べた形跡もないのに、一つ、また一つとお茶菓子がテーブルの上から消えていきました。 私も職員も「どうぞたくさん食べてくださいね」とおすすめはしていましたので、さほど気に留めてはいなかったのですが、さすがに消えていくお茶菓子が不思議に思えたほどでした。 お茶菓子の行方はわからぬまま、時間がたち、時をまたずしてトイレ介助に付き添った職員が悪く言われるまで、まさかサチさんの衣類の中にお茶菓子が詰め込まれていたとは、誰もが想像もつかなかったことでした。 「頼みもしないのに、お菓子をたくさんもってきたの。」 と部屋でこっそりとお茶菓子を食べていた所を、別の職員に見られたサチさんの小さな抵抗の始まりでした。
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